中野竹子の最期に読んだ辞世の句の意味と八重の桜に登場した薙刀と墓の場所

「おっさんフォース」管理人、みつーです。

幕末は激動の時代でした。

全く新しい体制が生まれるとき、
激しい闘いが起きるのは、今の世も同じですが、

ことさら幕末は、人の命が行き交うほど
激しい闘争になっていました。

それを戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。

そんな戊辰戦争の、ひとつの局面である
会津戦争で活躍した一人の女性

中野竹子に注目しました。

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中野竹子とは

中野竹子のことをWikiで調べました。

嘉永3年(1850年)3月または弘化4年(1847年) – 明治元年8月25日(1868年10月10日))
幕末期の会津藩の女性である。会津戦争において自主的に婦女隊として戦い、戦死した
しばしば烈女(烈婦)と称される。雅号は小竹で、中野小竹とも言う。

 

会津藩といえば、福島県の西部を中心に
新潟と栃木の一部にかかる藩だったそうです。

 

福島県にある会津若松市の辺りだろうか。
まぁ、大体あのあたりのことでしょう。

 

で、『会津戦争』ってのは明治元年に起きた
戊辰戦争(ぼしんせんそう)の一つの局面で、

福島県会津地方が主戦場になった戦争のことらしい。
明治新政府軍と旧幕府軍との戦争ですな。

 

結果は明治政府軍が勝利したってのは
周知の事実で、

 

この戦争以降から、旧幕府軍の勢力は落ちてしまい、
国際的に明治政府が日本を統治したと認められた
戦争になったわけですな。

 

今では考えられないけれど、
昔は福島県が東京に戦争を仕掛けるなんてことが
あったんですね。

山口県と鹿児島県が喧嘩したりとか
考えられへんもんな。

 

【中野竹子の人生】

さて、

中野竹子はそんな戦争で活躍したことで
有名ですが、

そんな中野竹子の人生を要約すると

 

会津藩の江戸常詰勘定役 中野忠順の
長女として生まれた。

あ、江戸常詰勘定役ってのは、
会津藩から出向して江戸に常駐する
財務管理をするひとの事。

なので、竹子は江戸で生まれました。

 

そんな竹子は幼少のころから
「頭のいいこ」だったとか。

 

小倉百人一首を完璧に暗唱し、
書道もたしなみ、武道もたしなむ。

容姿端麗で超美人。

 

父親の忠順にも溺愛されていたようです。

 

ちなみに武道のなかでも薙刀の腕前は
免許皆伝ほどの腕前も持ち主だったとか。

 

そんな文武両道で美人の竹子に惚れ込んだ
同藩士の「赤岡大助」に養女として迎え入れられる。

 

そして、赤岡大助の甥と結婚する予定だったが、
戊辰戦争が始まり、家族と共に会津藩に戻ることになりました。

 

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中野竹子の最期とは

出展:https://aizumonogatari.com/yae/material/4285.html

 

中野竹子の最期は壮絶です。

男と同じように戦場で戦い
そして散っていった。

ネットを調べて、ちょっと涙ぐんでしまいました(;_;)

 

新政府軍が攻め込んできたとき、
竹子と、竹子の母のコウと妹たちは

会津藩主の松平容保(まつだいらかたほり)の姉
照姫様の避難場所である宿に向かいました。

しかし、戦場での情報は往々にして間違っており
その宿には避難しておらず、まだ城内に残っていることが判明。

会津藩家老である萱野権兵衛(かやのごんひょうえ)と共に
救出に従軍させてくれと頼む。

しかし、萱野権兵衛は
「女子を戦場に出すは会津藩藩士の名折れだ!」

として拒否されるも

「ならば全員この場で自害いたします!!!!」

と、逆に迫れて

その迫力に萱野権兵衛も許可するしかなかったとか。

 

そして翌日、400名ほどの軍勢で突撃する。

―慶応四(1868)年八月二十五日夕方、
娘子軍含む一隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる
柳橋(涙橋)にて新政府軍と遭遇、
のちに「柳橋(涙橋)の戦い」と呼ばれる戦闘になった

 

その突撃部隊の中に女子がいることを見た敵軍は

「おなごじゃ!おなごがおるぞ~!」といって
嘲(あざけ)り笑った。

そして竹子を生け捕りにしようとした。

 

しかし、薙刀免許皆伝の腕前の竹子は
生け捕りにするには手こずることは必至。

 

しかたなく銃弾を食らわすことにした。

 

そして竹子は銃弾に倒れたものの

「首は渡すかーーー!!」ヽ(#`Д´)ノ

っと、竹子の母、コウと妹たちが鉄砲隊に突撃!

 

そして倒れた竹子に介錯(かいしゃく)

*介錯とは首をはねること

 

すぐさま戦場を離れて元いた宿に
戻ったとのこと。

Wikiにはこんなふうに書かれています。

戦闘では、竹子は奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死した。
首を敵に与えることを潔(いさぎよし)しとしなかったので、
こう子と優子は敵を薙ぎ払い、竹子を介錯して彼女の首を回収した。
なお、竹子は胸を撃たれたという説もあり、
その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。
首は後にこう子または農民の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。
享年は20とも言うが、18や22などの異説がある。

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中野竹子が読んだ辞世の句の意味とは

 

中野竹子の薙刀には辞世の句が結び付けられていました。

 

もののふの猛き心にくらぶれば

数にも入らぬ わが身ながらも

 

武士の猛々しい心に比べたら
私など数にも入らない身分だけれども・・・・・。

 

ここに続く言葉は何なのか。

 

竹子の得意な薙刀も鉄砲の前には非力。

 

されども、これまでの藩士たちの戦いを思うと
私も戦わずにはいられない。

 

そんな竹子の覚悟が現れた辞世の句
ではないでしょうか。

 

とても心を打たれる辞世の句であり
とても切ない気持ちになりますね。(TдT)

 

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中野竹子のお墓と薙刀はどこにあるのか?

 

福島県 河沼郡会津坂下町にある『法界寺』は、室町時代の永享10年(1438)創建。境内には、中野こう子、竹子、優子の親子、依田まき子、水島菊子、岡本すま子など、会津藩の婦女子によって結成された「娘子隊」と呼ばれた一人・中野竹子の墓があることで有名。また、竹子愛用の薙刀や遺墨は寺宝として残されており、無料で見学可能。毎年9月10日には会津坂下町で墓前祭が行われます。

戒名は美性院芳列筆鏡小竹大姉

出展:https://aizumonogatari.com/tour/6661.html

 

法界寺の基本情報

〒969-6542
福島県河沼郡会津坂下町字光明寺東甲3944
TEL. 0242-83-3519 (法界寺)

[営業時間]
境内自由
定休日/年中無休
[料金]
無料
[アクセス]
会津坂下駅下車 徒歩10分

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まとめ

歴史って、とても興味深いです。

 

この国で活躍した先人たちのことを知れば知るほど
日本の事が好きになっていきます。

 

新しいことって楽しいですが、
歴史もおもしろいですよ。

 

最後まで読んでくださり
ありがとうございました!

 

>>子供に読み聞かせたい日本人の物語 [ 占部賢志 ]

 

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